

| ●出生 1960年3月、福岡県大牟田市で出生しました。時まさしく、三池争議の真っ只中。東の安保・西の三池と言われた時代です。池田首相の所得倍増計画でも有名な時代でした。母の実家があった、大牟田市の中でも南部の早米来町(ぞうめきまち)という、熊本県荒尾市との境に近い町で暮らすことになります。ノリ養殖と石炭産業に特徴づけられるような環境でした。炭鉱最盛期には県境地区はとても栄えていました。映画館やパチンコ店が並び、スーパーマーケットも盛況でした。小学校に入学する頃まで、しばらくは闇市も残っていました。そこで、父(地方公務員)、母(専業主婦)、ニ学年上の兄、母方の祖父(郵便局事務官、故人)、祖母(専業主婦、故人)と6人で暮らしていました。虚弱体質でしたので、「パンビタンペレー・チョコレート味」といったような薬を飲んでました。近所には親戚も数多く、とても可愛がられました。祖父の本家は昔の早米来の顔役のようでした。祖母の方は、近代炭鉱の坑口が開かれた旧・駛馬村(はやめむら)の村長だったそうで、三池集治監にも関係していたようです。もともとの先祖は細川藩の儒学者(名村稜雲?)とか柳川藩士だったようなのですが、よくわかりません。三池争議の時、親戚が炭鉱会社にもいました。 ●成長 私立三里幼稚園(今は無いようです)に2年間通い、大牟田市立三里小学校に入学しました。荒木英子先生が担任で、熊谷先生という方も副担任的にサポートされていました。公務員だった父の勤務地が福岡市となったため、そこの近郊に引っ越すことになりました。 小学校2年生の1学期が終わり夏休みに入るところで、福岡県筑紫郡大野町(現在の大野城市)へ引っ越し、大野町立大野小学校へ転校しました。2年生の担任は柴田千鶴子先生、3年生では井上繁先生(現在は武蔵寺住職の井上亮範師と称されています)・原好子先生・江島昭彦先生(大牟田市出身)、そして4年生では原田久子先生が担任でした。 この1968-69年頃は、ベトナム戦争反対運動のピークでした。福岡市の天神では反戦デモ隊の壮大なデモを見ました。九州大学で建設中の大型計算機センターの工事現場には米軍のファントム戦闘機が墜落、佐世保市の平瀬橋では原子力空母エンタープライズ寄港反対闘争がありました。大野小学校近くにイタヅケ・エア・ベースの米人居住地(通称で「ベース」と呼んでいました)があり、そこの区域は治外法権地でした。今は九州大学の春日地区キャンパスになっています。同級生や上級生には父親が米国人で母親が日本人というこどもが何人かいましたが、皆んな概して仲が良く、今のように陰湿なイジメはあまりありませんでした。カーニバルの時にはベースが開放されましたが、買い物は円ではできず、ドルに両替しました。のちにベースが返還されて、近くの西鉄白木原駅界隈の米国人相手の店は寂れていき、解雇された基地従業員を父親に持つ親友は、その父親の転職によって転校していかざるをえませんでした。 5・6年生の担任だった木村敏美先生からは歴史や野外活動の面白さを学びました。サイクリングやキャンプに連れて行ってもらいました。木村先生は太宰府のボーイスカウトの指導者でした。近所のおじちゃん・おばちゃんにも可愛がられました。今里さん御夫婦(正勝さん:故人。三池争議時に第一組合員としてピケをはったそうです・敦子さん)、久保さん御夫婦(敏雄さん・智恵子さん)には成人以後もお世話になっています。また、家庭教師の前田二郎先生には論理的な考え方を教わりました。変数を使った方程式の解き方に初めて触れたのが5年生の時でした。 その後、大野町がベッドタウン化して大野城市となり、市立大野中学校に入学しました。軟式テニス部に入りましたが、あまり上達しませんでした。1年生では関敏治先生、2年生では太田公義先生、3年生では日下部眞先生が担任でした。勉強はけっこうしたのですが、成績が伸びなかったような記憶があります。テニスの練習を中央公民館のコートでしていると、そこのホール楽屋から出てきたミュージシャンと遊びでテニスをしました。彼等は後に有名になる甲斐バンドだったと思います。近くのレコード店には、海援隊など、「めんたいフォーク」の連中も出入りしていた様です。 高校は福岡県立筑紫丘高等学校へ入学しました。比較的自由な学校でした。そこでは1年生の時にバドミントン部に入りましたが、2年生からは再度軟式テニス部に入りました。担任は1年が原田千善先生、2年は故・中川元道先生(父の大学時代の同級生でした)、3年では平山昌宏先生でした。入学時の成績は450人中360番目くらいでした。西鉄春日原駅裏の喫茶店で、テニス部の同級生と模擬試験の答えあわせをしたりしたことがあります。そこでは、その友人の近所のお兄さんがアルバイトしていました。痩せてほっそりした長い髪の大学生でしたが、その人が飛鳥涼でした。 結局、一浪して「筑紫丘学館」という、当時の福岡県の公立高校には珍しくなかった高校の補習科の予備校に行きました。この頃まで、近くにあった太宰府や四王寺山にはよく出かけました。後年、『太宰府市史』執筆に関わるようになりました。 それから九州大学文学部に入学し、人文地理学を専攻しました。できたばかりの研究室で、一期生として卒業しました。指導教員は野澤秀樹先生でした。卒業論文指導は教養部の小野菊雄先生・小林茂先生(ともに当時)にもして頂きました。卒業論文は「八女茶業地域の形成過程」でした。虚弱体質だったのが段々丈夫になっていたものの、小学校時代に剣道を習いに行って途中で挫折した苦い経験を乗り越えたいと少林寺拳法部に入部しました(本部期生は362期、九州大学少林寺拳法部では8代目)。40人入部して半分がやめましたが最後まで続けました。3年生の全九州学生大会の時、同級生は全員入賞しました。そして全日本学生大会にも九州からの参加二大学のうちの一つとして出場しました。この部では仲村文博監督にお世話になり、多くの先輩・同級生・後輩に恵まれました。今思うと、スゴク「硬派」な部員でした。コンパや行事の時はガクラン着用でした。少林寺拳法の格闘的な要素が一層強い時期でガチンコ乱捕りも経験しました。大学院に進学しても練習して1983年に三段まで取りました(今も段位はそのままです)。大学三年生の時に筑紫野市に引っ越しました。大学院では修士論文がうまく書けず、1年留年して修了しました。修士論文は大分県上津江村からの人口流出に関するものでした。私は「一浪一留」で大学・大学院時代を終えたので、「人より余計に学費を払った」(by 母)のでした。また、結局、念願だった博士課程進学の夢はかないませんでした。しかし、最初の職業に恵まれました。 ●就職から現在まで 最初の就職先は長崎県佐世保市の国立佐世保工業高等専門学校で、一般科目の地理科助手として採用されました。2年後に講師になりました。そこで日本史の故・中野健先生に教師として育てて頂いた気がします。高専では寮監も経験し、野球部顧問をしたり空手部の練習にも顔を出すなどしましたが、その折に、空手道・大道塾・佐世保支部の発足と同時に入門し、当時、「北斗の覇王」といわれた西良典先生に出会います。西先生は後に、「総合格斗術・慧舟会」を設立されました。 学部時代からの読書会が本格化したのもこの時期で、考古学の方々に多くの事を学びました。田中良之さん(九州大・比較社会文化研究科)・岩永省三さん(九州大・総合博物館)・澤下孝信さん(下関市立博物館)・杉村幸一さん(福岡市教育事務所)、そして夭逝された故・松永幸男さん(北九州市立博物館)たちです。また、炭鉱の閉山した離島である長崎県西彼杵郡高島町を調査した「高島研究会」では学際的調査を楽しく経験しました。メンバーは齋藤寛先生(長崎大・衛生学)・山本勇次先生(大阪国際大学・文化人類学)・宮入興一先生(愛知大学・財政学)・守山正樹先生(福岡大学・衛生学)そして西原純先生(静岡大学・人文地理学)がその主要メンバーです。その多くは長崎を離れてしまいました。1988年からは「日独地理学者会議」にも関わりました。4年半して島根大学法文学部地理学研究室に移りました。過疎地域研究のメッカでしたが、大学改組の波をかぶる時期でしたので、あまり研究に時間が割けなくなっていきました。そこで8年半過ごした後、九州大学から大阪大学へ異動されておられた小林茂先生と職場を同じくすることになりました。この間、過疎研究会をたちあげました。メンバーは人文地理学者で、西原純先生(静岡大)・岡橋秀典先生(広島大)・西野寿章先生(高崎経済大)・関戸明子先生(群馬大)・キム=ドゥ-チュル先生(岡山大)です。また、小林潔司先生(京都大・土木工学)主宰のMARG(Marginal Areas Research Group)では工学・農学関係の先生方やスウェーデンなど海外の研究者らと研究活動を行っています。 大阪では千里ニュータウンのほど近くに住むことになりましたが、早々に公園内で若者に因縁をつけられたり、連続して車上荒らしに遭いました。体もなまってきましたので、少林寺拳法の練習を十数年ぶりに再開して、子どもらと楽しく練習しています。達人の有澄雄輔先生や相方の野口晋さん(有名な東京・山の手道院のご出身)と練習しています。吹田市の大会でしたが昨年は野口さんとの組演武(20年ぶりに練習)で三位に入賞しました。少林寺拳法の目的は突き・蹴りなどの技の向上ではなく、「自己確立」をふまえた「自他共楽」の社会建設にあります。その点、生前の開祖・宗道臣師の教えに中年になって再度目を向けることになりました。開祖は亡くなる直前も病身をおして私たちの前に出て直接話をして下さいました。その姿勢を今も思い出します。私が拝聴した最後の開祖法話は、香川県多度津町の本部にて、御逝去直前の1980年3月のことでした。 |
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